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吾輩は猫であるのあらすじと感想をご紹介します。短いあらすじを知って興味を持ったらぜひ、書籍をお読みください。
サクッと内容の把握ができるので、読んだことがない人でもすぐ語れるようになります。会話の話題づくりや読書感想文にもぜひお役立てください。
吾輩は猫であるのあらすじ①
物語の主人公は、珍野という家庭で飼われているオスの猫で、名前すら付けてもらえなかったことから、自分のことを吾輩と言っている猫が主人公です。
吾輩と名乗る猫は、隣人宅の三毛猫に恋い焦がれていたのですが流行り病からなのか病死してしまい、この時から、哲学者の様な指向に変化し、吾輩と名乗る猫は人間を注意深く観察するようになるのです。
例えば、なぜ、4つの足があるのに2足歩行する必要性があるのかなどの他、なぜ容姿について整えることを重要視するのか、特に髪の毛のみ注力して整えるのかなど、人間はどこか滑稽な生き物であると考え始めるのです。
一方で、吾輩と名乗る猫を飼うご主人は、英語の教師で苦労人であり何かと苦労が絶えない人物でしたが、教え子が結婚するということで、珍野家で結婚についての送別会を送るという流れになります。
この時吾輩と名乗る猫は、気苦労が多いご主人の往年の最後はこのままでは、周りの人間に振り回されるだけで利点と言えるものが無いということから、自殺するのが賢明であるという考えを見出します。
ご主人の結末に対して浸っているといつの間にか送別会はお開きで吾輩と名乗る猫だけが一人取り残されてしまいます。吾輩と名乗る猫は、寂しさからか、残っていたお酒をなめてしまい酩酊状態で水がめに近づいてしまい…。
水亀で溺れ、ご主人の死よりも前に自分の死を悟り、そのまま、水がめに沈むという運命を受け入れ沈んでいきました。
吾輩は猫であるのあらすじ②
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という名文から始まるこの作品は、自分を「吾輩」と呼ぶ、人間のような猫の独り言から始まります。飼い猫に名前をつけるのは普通なのに名前がないという、いきなり初めの一行で読者はどうしてだろうと思い、作品に引き込まれていきます。
実はこの猫は書生に捨てられた野良猫で、英語教師の苦沙弥(くしゃみ)先生の家に行って、下女のおさんに放り投げられたりしながらも、ようやく彼の家に住み着くことを許されたのでした。
猫は近所に住む「白君」と「三毛君」と世間話をしたりしますが、~君というのは明治時代の書生の言い方で、ここでも自分が人間のような視点で話しています。
そして苦沙弥先生も一風変わっていて、英語教師でインテリ階級なのですが、猫の目から見るとインテリぶっているようで、滑稽な謡曲やへたくそなバイオリン、そしてルネサンスの画家を目指して描いている絵も、友人にも馬鹿にされている始末。
明治時代に急に増えたインテリを風刺していると感じさせられる部分です。猫は「黒」という黒猫に会います。見事な江戸っ子口調で話す「黒」に、何匹ねずみを捕ったか聞かれて一匹も取っていないと猫は答えます。黒は人間は卑怯だ、自分が捕まえたねずみを交番に持って行ってお金に換えている、と憤ります。
そして苦沙弥先生の二人の門下生の結婚に話は移ります。門下生と先生の会話は、明治時代の女性言葉「~なくってよ」「~なさいまし」や、男性は「~だったぜ」「~じゃないか」という、完全な口語体で生き生きと描かれています。
門下生との宴会で出たお酒を飲んだ猫は、そのまま酔っぱらって水の中に落ち、南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい、と人間のように死んでいくのでした。
吾輩は猫であるの全文は書籍で読めます。青空文庫にもありますが、本は夏目漱石の世界観を存分に感じられるので、ぜひ読んでみてください。
author:執筆者:高橋渉
【200字~400字】「吾輩は猫である」の感想文・口コミ
【感想・評判調査概要】
調査対象:本書を読んだ人
調査手法:インターネット回答
30代男性
猫の人間という生き物に関する洞察力がものすごく高く、人間の欠点とも言える部分を理解していたりとかなり考察力がある猫であるというのがこの物語の魅力でしょう。特に、何の役にも立たない研究をする人間の他、飼い主であるご主人に対しては、このまま生きていくよりも自殺したほうが楽になるのではないかなど、結構辛辣に人間をとらえている点が面白いポイントです。何というか、娯楽という言い方は失礼なんでしょうが娯楽としてみるというのがこの作品ではないかと思いました。
50代女性
猫が主人公ですが、「吾輩は」と威張った人間のような話し方をします。この作品は、猫の目から見た明治時代の日常生活がいきいきと描かれ、時にはチクりと皮肉や風刺を含んだ、だテンポのいい語り口で進んでいきます。夏目漱石は帝大(今の東京大学)で英語教師をしていますが、この猫の居候先が英語教師の苦沙弥(くしゃみ)先生です。つまり、夏目漱石自身がモデルで、猫の話と言う形をとりながら、自分の日常風景を描いています。例えば、夏目漱石は芥川龍之介や森鴎外など、当時の文豪たちと交流がありました。この時代は、お互いの家を行き来しながら文芸評価をするということが日常的に行われていました。この作品にでてくる登場人物は、文芸ファンにとっては、夏目漱石の友人関係を推測する楽しみも与えてくれます。
「吾輩は猫である」で伝えたいこと
吾輩は猫であるを読んだ人に、この本が伝えたいことを考えてもらいました。
伝えたいこと①
この作品は人間社会の馬鹿馬鹿しいだろうという部分について伝えたいと思えますが、実は馬鹿馬鹿しいことが一番重要であるということを再認識する作品でもあります。
容姿を整えることもそうですがそれらは猫の立場であれば不要ですが、人間には必要です。そしてお酒という存在も人間に必要で猫に不要だったというだけで猫が不要なお酒を飲んだがゆえ、報いを受けたと考えれるわけです。
伝えたいこと②
明治時代はエリートが幅を利かせていました。しかし実力もないのにフリをしているだけ、普通の人のように鼻ヒゲを抜いたり、くだらない話をしているんですよ、だからエリートは特別じゃないんですよ、と猫の口を介してエリートを批判しています。
「吾輩は猫である」の見どころ・面白いところ
吾輩は猫であるの魅力や面白いシーンを解説します。
猫の考え方がドライ
ものすごい吾輩という猫の考え方がドライです。恐らく捨て猫だったという点、誰も飼い猫なのに相手をしなかったという方向性から考え方が素っ気なくなったのでしょう。
自分がおぼれ死ぬという点にも異様にドライです。溺れて死ぬという点ではあきらめたというより、その事実を受け入れあがくことをやめれば苦しまずに済む、などあまりに哲学者的でかつドライすぎる点が作品の見どころでしょう。
苦沙弥先生や友人の会話が逸材
なんといっても苦沙弥先生と迷亭などの友人との会話が秀逸です。完全な口語体で書かれていてテンポが良く、この作品は声に出して読むことで、その魅力が引き出されます。苦沙弥先生や友人がやたらとカタカナ文字を使ったり、俳句や絵など、インテリぶっている姿が面白いシーンです。
「吾輩は猫である」の最後の一文を解説
最後の「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」がとても印象に残る文です。
おそらく、猫自信が死というものがすべてから解放される救済であると考え、ありがたいと言い切ったのだと思います。その説猫も捨て猫だったとか失恋の他いろいろなことを経験しているため、死こそがすべてから解放すると思い、仏門に入ったのでしょう。
また、「南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい」と言う口調は人間そのもので、猫は最後まで自分を人間だったと思っていたかもしれません。その前の一文「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ」というのは、明治期の日清戦争、日露戦争で戦争を経験した日本にとって、太平の世が遠いことを暗示しています。
吾輩は猫であるの基本情報|英語版書籍や絵本はある?
作品の詳細 | 内容 |
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作品名 | 吾輩は猫である |
カテゴリー | ユーモア小説 |
著者 | 夏目漱石 |
発売日 | 1905年10月6日 |
ページ数 | 592 |
言語 | 日本語 |
ISBN-10 | 4041001013 |
ISBN-13 | 978-4041001011 |
吾輩は猫であるの英語版書籍&絵本
吾輩は猫であるは英語版の書籍もあります。
小学生向けの絵本もあります。原作から抜粋した内容で、読み聞かせにもぴったりです。
吾輩は猫であるのあらすじ、ネタバレのよくある質問
吾輩は猫であるのよくある質問に回答します。
「吾輩は猫である」のドラマ・映画・関連動画
「吾輩は猫である」のドラマ・映画・関連動画をご紹介します。
「吾輩は猫である」は何回もドラマ化されています。また、アニメ化や映画化もされています。気になる方はチェックしてください。
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